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さくらんぼの歴史

原産地は系統によって異なり、甘果桜桃はアジア西部から南西にかけて、酸果桜桃は東南アジア、中国桜桃は中国であるとされています。

栽培の歴史は以外に古く、ヨーロッパでは紀元前から栽培されていました。また中国では、五経の一つである「礼記」に記述があることから、3000年前には既に栽培されていたことがうかがえます。

日本には江戸時代初期に中国から入ってきましたが、気候に合わず普及しませんでした。



現在のさくらんぼのもとになった甘果桜桃が日本に伝わったのは1872〜1875年で、アメリカやフランスから導入されました。それらの苗木が適地である北海道や東北に配布され、日本でも独自の品種改良が進められるようになっていったのです。



さくらんぼの栽培面積・生産量ともに全国1位の山形には、明治8年(1875)に東京から、洋なし・りんご・ぶどうなどの苗木にまじって、3本のさくらんぼの苗木が入ってきました。

明治9年(1876)には、初代の山形県令三島通庸(みしまみちつね)が、北海道からりんご・ぶどう・さくらんぼの苗木をとり寄せ、明治11年(1878)には、試験場をつくり育ててみました。寒河江では、明治9年(1876)に内楯の井上勘兵衛が、北海道からさくらんぼの苗木をとり寄せました。


本田氏

明治21年(1888)には、本多成允(ほんだ せいいん)と渡辺七兵衛が中心となり、農産物試験場をつくり、キャベツ・じゃがいも・りんご・さくらんぼなどの西洋野菜が、この寒河江にあっているかどうか試験をしたのです。やがて成允は、石持や山岸の農家の人たちに苗木を分け、さくらんぼの栽培を広めました。


気候風土がさくらんぼの栽培に適していた山形では、明治28年(1895)頃には、品種も増えて、生産量もだんだん増えてきました。

しかし、地元だけでは、買う人が限られますし、生のままで県外など遠くに売りに行ったのでは、新鮮さがなくなってしまいます。そこで、井上勘兵衛は、缶詰にすることに成功し、遠く横浜まで売り出しました。

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column

佐藤錦誕生話

山形県東根市にある佐藤家は、明治後半に醤油醸造の家業を廃業。その後、果樹園経営を始めた佐藤栄助翁によって大正元年(1912年)にさくらんぼの品種改良に着手。

改良は、味は良いが日持ちが悪い「黄玉」と日持ちは良いが固く酸味の強い「ナポレオン」をかけあわせることから始められました。

実を結んだその種から五十本ほどの苗を作り、中から優れた苗約二十本を育てたのです。

「従来のさくらんぼでは、酸味が強くて日持ちが悪く出荷の途中に腐ってしまうため市場性が薄いのでなんとか改良しなくては」という翁の情熱と強い意志のもと、大正十一年(1922年)、その苗木に初めて実を結ばせることに成功。

これらの苗木からさらに優れた一本を選び、新しいさくらんぼの「原木」と したのです。

佐藤栄助翁の友人で苗木商(株式会社天香園)初代岡田東作翁も佐藤栄助翁とともにさくらんぼの改良に情熱をかたむけた人物。

岡田翁は、大変難しいこの改良されたさくらんぼの苗木作りに何度となく挑戦。そしてその苗木を多くの果樹農家に広め世に出しました。

いわば佐藤栄助翁は生みの親である一方、岡田東作翁は育ての親といえます。今日のさくらんぼ「佐藤錦」が全国にその名を知られるようになったのはまさしく岡田東作翁の努力によるものです。

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